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SMECアイ−診断士の視点−ESSAY

筋金入りの本物の仕事
                              中小企業診断士 村上 顕

奈良・大和路

 大学時代大和路探索会というサークルに所属し、4年間通った大和路に最近また通い始めている。大和路の魅力は一言でいえば、タイムカプセルに乗って1300年前へタイムトリップができるところだ。筋金入の本物の古さと品質がそこにはある。法隆寺、唐招提寺、東大寺、春日大社、新薬師寺、興福寺、薬師寺、法起寺、飛鳥寺、元興寺等挙げればきりがない。

京都

 京都は中小企業診断士になった後に、診断士3次試験の教官であった恩師の誘いで研究会へ顔を出すようになってから通い始めた。それでも10年はゆうに超え、大原野のエリア以外についてはほぼ歩き倒してきた。なんといっても京都の魅力は街並みと文化と古い神社仏閣が繰り返し繰り返しそこはかとなく目に飛び込んでくるところにある。東京という怪物に対し、他の都市がひるむ。しかし、京都だけは全くひるまず我を主張し、こここそが日本であると静かに貫録で訴えているように見える。
また、京都の企業は上場しても東京への本社移転をほとんどおこなわないそうである。理由は、東京にはビジネスの担当者が来るが、京都には社長自ら夫婦でやってきて観光もしたうえで京都ファンになって帰るという。そこに登場するのが祇園であり、舞妓さんたちなのである。地域をあげてのビジネス支援が期待できる京都。その後のビジネスに大きな差が生じるのは当然のことなのである。

春日山原生林

 夏のある日、春日山原生林を歩いた。春日大社を見た後、滝坂の道つまり旧柳生街道を東へとり、ゆっくりと飛鳥中学の横の小道を入っていく。落ち葉が足元に残り、土の香りがしっかりと漂ってくる。せせらぎも山をゆっくり上るとだんだんとしっかりした谷間の流れとなって耳にそして目に入ってくる。大きな岩から数本水の滴り落ちるところがある。ここの水は、甘く冷たくて絶品である。じっとりとしたジャングルの天然サウナの中でじとーっとかく汗がTシャツ他全身を濡らしているので、思わず顔を洗い、髪まで洗った。生き返るひと時である。鳥のさえずりも多種多様。植林された山だとこうはいかない。歴史を感じさせる質素な石畳も実にすばらしい。そんな蒸し風呂のようなジャングルを3時間歩き、やっとの思いでたどりついた若草山の頂上に寝そべり、山を吹く風に身を任せるひと時はまさに天国だった。古代、初めて奈良へやってきた帰化人たちは、この若草山や春日山、奈良三山が平地に広がる姿を見て、故郷である韓の国を感じたのではないかと思ったくらいである。自分も行ったことがあるが、韓国の慶州に似ていないだろうか。

鴨川

 京都を歩くときは、必ず鴨川を歩き、そこから見える風景を楽しみながら目的地へと進むことにしている。非効率とかではなく、とにかく自分の京都見物のスタイルとなっている。美しい水の流れ。鴨長明や吉田兼好たちがつづった川の流れである。同じ音を聞いていると思うと偉人たちと会話しているように感じてくる。白い鳥が、優雅に一本立ちして流れを見ている。カモの一団が流れをよぎる。子どもたちがせせらぎで遊ぶ。川の両岸で座って語るのはデートの定番である。そんな流れを見た後に川の道から上がって、路上へでる。ただ、私の場合は大和を歩くときと違い、京都でのデスティネイションは特に設定していない。いわば街全体がデスティネイションなのである。

奈良と京都

 では、奈良と京都はどこが違うのだろうか?もちろんできた時代は違うし、場所も違う。それは当然であり、ここでは考えない。私が、感じるのは、京都はどこをあるいても次から次へと文化の香りがするということだ。ちいさい小道ひとつにも伝統としての古き良き日本が落ちているのだ。そこが京都の魅力だろうと思っている。
これに対して、奈良はというとスポットスポットは筋金入の本物が鎮座している反面、そこへ至る道すがらは残念ながら楽しめるところが極めて少ない。また、京都と違って広大だということ。次々と細かな見どころを楽しむというわけにはいかない。スポット間がつながらず、ちょんぎれる。ここが京都と決定的に違うところである。京都は近代と古いものが混合し美しいハーモニーとなっている。どこででも楽しんでくださいという姿勢だ。これに対し、奈良からは私はそれを感じない。本物は用意していますので、自分の足でほかのものには目もくれず、そこだけを見に来てください。そのかわり、そんなところでも、ひたすら歩くとどこにもない感動と絶景をお約束しますという姿勢だ。やさしさと厳しさの両方がこの2大空間では味わえるということである。

先人の仕事

 このたび約60年ぶりに地上に降りた国宝薬師寺三重塔の九輪と水煙を見た。1300年の風雨に耐えたその姿は、凍れる音楽といわれるその塔の美しさと同じく、実に美しいものだった。あんな高い、人間では見えないようなところにつけられるものにあれだけ細かい細工を施しているとは。水煙の模様にはたくさんの飛天が笛を吹きながら正対しまた逆さになりながら描かれている。また、九輪は上から重なっているだけで釘一本使用していないのである。いったいどうやってあんな高いところにこれだけのものを付けたのか?また、1300年も風雨に耐えられたのか?魂をこめた仕事こそがその答えであろう。同じような九輪の一部(国宝)と創建当時の塔の柱が醍醐寺の宝物館にも展示されていた。重さは4トンで、薬師寺のものは3tンである。宇治の平等院の一対の鳳凰も1000年風雨に耐えている。日本の世界に誇れる宝ではないか?この仕事への姿勢こそが。今の職人たちは、その姿勢を受け継いでいるか?はずかしい仕事をしていないか?

正当な評価を

 魂をこめた仕事が正当に評価される国をとりもどさないといけないのではないか?安ければなんでもいいのか?外から見たら同じでも、魂のあるなしで長期間に差がでるもの。化けの皮がはがれるもの。こんな筋金入りの文化を売り込めるようなモノづくりをし、そして売り込みをしたいものだ。欧米では、キリスト教はもちろんだが、オペラやミュージカルくらい語れないと一流にみなされない。日本の本物を作った先人たちの仕事に敬意を持ち、その背景にある思想とともに、本物を世界に問う必要があるのではないか。

NPO法人 ビジネスアシストこうべ