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SMECアイ−診断士の視点−ESSAY

原子力発電の是非
                             中小企業診断士 DAHDA

危険と便益の視点

 本エッセイのコーナーで「原発再稼働の是非」と題して過去に2回書かせてもらいましたが、原発が再開された今、2年ぶりにもう一度少しだけ視点を変えて書くことにしました。
 日本における原子力発電所の運転可否の議論は賛成論者と反対論者の議論が全くかみ合っていません。原子力発電以外のもの、例えば自動車や旅客機にも命に係わる危険が伴っています。にもかかわらず、それらが運転可否の議論無く使われているのは、「使うことで得る便益」の方が「(事故が生じた場合の損失)x(事故が発生する確率)」よりも遙かに大きいということが暗黙の内に了解されているからでしょう。
 車で事故に会い命を落とす確率は原発事故に遭遇するよりも遥かに高いであろうが、一つの事故では多くても数十人、年間の累計でも日本だけの死者数なら数千人のオーダーである。日本人はこのオーダーであるなら、車を使う便益が勝ると考えていると言えるでしょう。
飛行機事故では一度に数百人の死者が出ることもありますが、事故に遭遇する確率は自動車よりも低く、この場合も飛行機を使用することの便益が勝ると暗黙の内に了解されていると言えます。

事故が生じた場合の損失の大きさの議論

 然るに、日本における原子力発電専門家の議論さらには裁判での論点に至るまで、少なくとも新聞等で報道される範囲では「事故が発生する確率が十分低いかどうか」ばかりに偏っており、「事故が生じた場合の損失の大きさの議論」は故意に避けられているように感じられます。原子力規制委員会の誰かが「あの裁判長は事故の可能性0を求めている(だから間違った判決だ)」といみじくも言ったように、事故が発生する確率は0では有り得ない。だからこそ、送電費用が高くついても原子力発電所は大都市から離れた所に建設されている。しかし、事故が生じた際の損失の大きさの議論が抜け落ちたままでよいのでしょうか。
 これでは、「万一事故が起きると取り返しがつかない。だから反対。」と主張する反対論者と議論がかみ合わないのは当然でしょう。
 原子力発電所の建設を断念した国での議論は、「事故が発生するする確率が十分低いかどうか」の技術上の議論だけではなく、「事故が生じた場合の被害の大きさが、損得の議論を超えて人として許されるのかどうか」という倫理学上の議論も行われています。原子力発電所の事故は天災と異なり、建設・運転しなければ避けられる災害です。「事故が発生する確率」が十分低ければ「事故が生じた場合の損失」はいくら大きくてもよいということではないでしょう。損失の大きさには人として許容される限度があり、その限度をどこにおくかという議論が日本においてもされるべきであると感じています。

幅広い議論を

 海外では原子力発電の可否を検討する際には、技術の専門家や経済の専門家だけではなく、宗教家等も含むもっと広い分野の所謂賢人を集めて議論している国もあります。事故が生じた場合の被害の大きさを考えると、所謂専門家だけでの検討が誤った方向へ日本を導く可能性を出来るだけ低くしておくべきであり、日本においても広い分野から高い人格を備えた人が集まって原子力発電の是非に関する議論がなされることを願って止みません。


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