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成蹊 ~ 吉田松陰に見るリーダーの魅力と人材育成
                                    摩虎羅大将

牢にいても・・・吉田松陰の人としての魅力

 成蹊という言葉をご存知でしょうか。成蹊大学と言う名を耳にされた事はあろうかと思いますが、実はこの「成蹊」は成句で、「桃季言わざれども、下、自ずから、蹊(みち)を成す」(史記「季将軍伝、賛」)から来ていて、「桃季(桃やスモモ)は何も言わないが、美しい花や実があるから、人が集まり、下には自然に道が出来る」という意味です。
 「徳のある者は、自ら求めなくても、世人はその徳を慕って、自然に集まり従う」と言う事の例えです。僅か二文字ですが、含蓄に富んでいます。
 吉田松陰が入牢しながら、囚人や、看守まで感化し、獄中を学校さながらの教育の場と変貌させた逸話を思い起こす度に、まさに「成蹊」、この言葉が心に浮かびます。

吉田松陰の生涯@ 命がけの勉強

 吉田松陰は1830年、萩で杉百合之助の次男として生まれ、わずか29年間の人生をスタートします。5才の時に、藩の山鹿流兵学師範の吉田大助の養子になりますが、義父吉田大助は早逝します。兵学師範の後継ぎとなった松陰は、叔父の玉木文之進から厳しい教育を受け、9才で長州藩の兵学師範となり、11才で藩主の毛利敬親に講義を行うまでに成長しました。13才には、長州軍を率いて、西洋艦隊演習を行いました。
 1950年、藩の兵学師範として、全国に西洋兵学研究の旅に出ます。松陰はこの時、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことも知っており、日本が西欧列強の次の標的となることを予見して、命がけで勉強します。長崎や江戸を訪れ、やがて、洋学の第一人者の佐久間象山に入門します。
 東北遊学の際、友人との義理を優先し、藩の許可証を持たずに出発し、脱藩の罪を犯すこととなり、御家人召放しの処分となります。
 1853年、長州藩の名君、毛利敬親は、「国の宝」吉田松陰が閉居していることを憂えて、許します。再び江戸に出て、象山に洋学を学び、浦賀に来航したペリー艦隊を見ます。
 象山に西洋兵学(砲術等)を学んでいた松陰は、象山の助言もあり、黒船に密航して、西洋に渡り、西洋で西洋兵学を学ぶ計画を立て、1854年ペリーにも会います。外交上の問題から、勿論、密航は断られますが 、ペリーは松陰の人物と勇気に好感を持ち、船を失った松陰達を送り届け、幕府に、松陰達の処分を重くしないように要請します。密航に失敗した松陰は、すぐに自首します。
 
吉田松陰の生涯A 教育者として
 
 密航によって松陰は、野山獄に入りますが、ここから、死までの5年間、教育者としての才能を開花させる事になります。
 野山獄では500冊の本を読み、大切なポイントは自分でメモして、自らの骨肉にしていきました。また、囚人相手に講義を行い、看守さえも共に耳を傾けた事は前述の通りです。獄中の態度が模範的であった為、杉家での閉居に減ぜられます。
 杉家ではまず家族に講義を行い、やがて松陰を慕って人が集まり、三畳の部屋では手狭になったので、現存する8畳10畳半二間の松下村塾へ移る事となります。
 松下村塾とは、松本村の塾、という意味です。塾で指導したのは、江戸に送られて刑死するまでの、僅か2年半という短い期間ですが、この小さい小屋から、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有明等、幕末から明治の日本を創造した貴重な人材を輩出します。
 
松陰先生紀行
 
 子供と共に歴史を学ぶうちに、子供が前述のエピソードに興味を持ち、行きたがったので、松下村塾を訪ねる事にしました。
 実は、私は、小学校1年生の時、松下村塾を見ています。ただの小さな建物を見ても、見応えもなく、つまらなかったという印象が残っています。
 今回は、子供達にそんな思いをさせたくなかったので、松陰博物館、至誠館、と吉田松陰の足跡を学んでから松下村塾を訪ねました。そうすると、そこに教えていた吉田松陰や学んでいた高杉晋作達の姿を思い描く事ができて、よくぞ実物が残っていてくれたと家族で感動しました。さらに、松陰を教育した玉木文乃進宅、松陰の墓、松陰の生家跡も訪ねました。
 生家の石碑の作成者の所には「門下生 山縣有明」とありました。総理大臣を2度務めた人物であっても、松陰の前では「門下生」以上でも以下でもない所に、松陰を尊敬する思いが伝わってきました。
 訪ねるうちに、「松陰は・・・」と話していた自分に、だんだん違和感を持つようになりました。「松陰先生は・・・」と語ってみてしっくりときました。その生き様に、私自身も感化されてきたのです。各記念館の受付の方も、若い女性であってもよく勉強されていて「松陰先生は・・・」と丁寧にいろいろ教えてくださいました。160年経っても、萩の人々に、心から慕われている事が良くわかりました。
 神戸から萩まで、往復10時間かけて、松陰先生に会いに行きましたが、子供達から、なぜ、もう1泊予約しなかったのかと責められるほどに、今回松陰先生から私達家族が得たものは大きかったです。してみれば、家族旅行のつもりでしたが、これもまた、松陰先生の「成蹊」の力の為せるわざか、と思い至りました。
 
歴史のプロの目
 
 「Qさま」と言うクイズ番組で「歴史のプロが選ぶ!本当にスゴイ幕末・明治維新の人物ベスト25」と言うランキングを1時間かけて発表していました。
 5位 伊藤博文、4位 勝海舟、3位 坂本龍馬、2位 西郷隆盛、と来た時は、正直、この4人より知名度の低い松陰先生が、まさか1位になると思わないので、1位が吉田松陰と発表された時は、驚き、また喜び、家族で歓声を上げました。
 「歴史のプロが選ぶ」とこのランキングになるのか、と感心させられました。
 一旦、歴史に埋もれていた坂本龍馬を、司馬遼太郎を初めとする歴史のプロ達が、日本人の心の共有財産にまで押し上げたように、歴史に造詣が深いほど「松陰先生こそ、もっと評価されるべき」と考える人が多いのではないでしょうか。
 
松陰先生の教育と魅力
 
 松陰先生は門下生一人一人に合わせ、門下生の長所を伸ばす教育を行ったと言われます。高杉晋作の「いかに生くべきか。」の問いに「親、弟妹を守り、主にしっかりつかえた後、生きたいように生くべし」と答え、「いかに死すべきか。」の問いには、「死して名を残すならば、その時死すべき。生きて名を残すならば、生くべし。」と答えています。
 また、歴史の講義は、涙を流す時もあった程に情熱を込めていたと言われます。欧米列強から日本を守るために、自らを危険にさらす事もいとわぬ行動も含め、松陰先生の講義で門下生の魂が揺すぶられた事は想像に難くありません。
 「至誠(誠を尽くせば、人は必ず心を動かされる、の意)」と言う孟子の言葉を重視したように、その純粋性も魅力です。
 幕府は殺すつもりはなかったのに、聞かれてもない自らの老中暗殺計画(勿論、罪は自分一人で引き受ける)を含めた幕府批判を行って、安政の大獄、最後の死罪となります。
 あまりにも勿体ない、真っ直ぐ過ぎる死に様に、松陰先生を敬愛する人々の気持ちは私たちが想像してもしきれない程のものであったでしょう。
 この一部始終と残される者たちへの思いを込めた遺書「留魂録」は、なぜか(これも松陰先生の徳の為せる業か?)松下村塾の塾生たちに届けられ、読み継がれ、その名の通り、死して、松陰先生の魂は、門下生の心に留まり続ける事となります。そのエネルギーが明治以降の日本で起こった、アジアの奇跡の原動力となったことは間違いありません。
 経営においては、ゴーイング・コンサーン(継続企業の前提)と言われる通り、継続するためのバランス感覚も大切なので、松陰先生のような冒険人生をそのままおすすめできませんが、リーダーシップと言う物を考える時、理念と行動を一致させるような厳しさを自らに課しながらも、メンバーには一人一人の良さを伸ばすような優しさを持って接した松陰先生の人材育成は、参考になる所も多いのではないでしょうか。
 

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