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SMECアイ−診断士の視点−ESSAY

綿花と三味線
                            中小企業診断士  古野健治

江戸時代の象徴

 法政大学総長の田中優子教授の著書「カムイ伝講義」を読んでいると、「綿花と三味線は、江戸時代を象徴するモノだった」との記述があり、意外な思いをした。この2つの本格的な生産は江戸時代の前後300年余の時期だけだった、ということらしい。
 三味線の歴史については、16世紀末に琉球から伝わった三線(サンシン)がその後、蛇皮に替えて猫や犬の腹皮を使い改良されたという。豊臣秀吉が淀殿に贈ったといわれ、江戸時代に石村検校によって本格的に改良され、歌舞伎・長唄・常盤津節・清元節・浄瑠璃などの芸能に伴って普及したようである。やがて遊里や庶民の座敷に広がり、地方では津軽三味線なども作られたが、明治時代に西洋の芸能、音楽が流入して次第に衰退したので、田中教授の説もうなずける。ではもう一方の綿花はどういうことなのだろう。

綿花栽培の歴史

 木綿(もめん)の原料である綿花は、紀元前5000年頃にはメキシコやインドで栽培されていたらしい。日本では799年に三河に漂着したインド人から綿種が伝えられたとの記録があるが、栽培技術もなく気候も合わなかったのですぐに途絶えた。その後室町時代に、朝鮮や中国の木綿が輸入され、栽培法や加工技術を学びながら国内でも主として農民の野良着用として栽培されるようになった。
 江戸時代に入ると、オランダ経由でインド木綿が伝わると、硬い朝鮮・中国木綿と異なりその絹のような柔らかさが好まれ、町人の着物としても普及した。栽培・加工の技術向上や各藩の奨励策もあり綿花栽培は一気に花開いた。兵庫でも専売制により姫路藩(酒井家)の姫路木綿が有名になり、隣接する東播磨の一橋家領地でも綿作が盛んになった。
 しかし明治以降、産業革命の水力・蒸気エネルギーにより大量生産されたイギリスから安価な綿糸が輸入されると、国内の綿花は対抗できず、輸入綿糸を原料とする綿布生産に転換していき、さらに1896年に明治政府は綿花輸入関税を撤廃したことで国内の綿花栽培は一気に崩壊してしまった。綿花栽培も三味線と同様、江戸時代の仇花であったようだ。

綿花と「勤労革命」

 日本の綿花栽培は多くの手間や肥料を要し、簡単なものではなかったようである。その手順はまず「種蒔き」。麦を刈った後に種を植え、生育途中にも何度も施肥する。肥料として干鰯(ほしか)や菜種油の油かす粉などが使われた。江戸末期に東播磨の豪農である伊藤長次郎は北海道から直接仕入れた干鰯を販売して財閥の基礎を作ったと言われている。
 アジア系の綿花は下向きに咲き、子房が膨らみ、はじけて白いワタになると収穫する。農家がそのまま綿糸や綿布まで加工生産する場合もあるが、多くの場合は工程ごとの分業になった。綿仲買が綿花を買い集め、「繰屋(くりや)」がワタから種を取り除く。繊維の絡まった種は藁灰と尿をまぶして取り除き、種蒔き用の残りは綿実油として搾られ灯油に使われた。灰と尿と繊維分は肌肥の肥料として活用された。
 「繰り綿」は綿問屋が買い、舟や牛馬で各地の「綿打ち」店に販売される。店では綿弓ではじいて「打綿」にし、さらに「かせ糸」に加工される。そこから「織口(織り人)」が白木綿として、あるいは染めや絞りに出され、呉服屋で着物に仕立てられる。このように14〜15の工程を経るため多くの人出がかかる。逆に言えば一種のワークシェアリングとして綿産業は多くの農家や職人や商人を潤し、地方産業を活性化させてきたとも言える。江戸時代はこのような「勤労革命」によって多くの技術者が輩出され、その技術力が明治以降の近代産業の基礎となったと言われる。
 ちなみに小規模な「産業革命」として、かつては六甲山麓の急流河川で多くの水車動力が綿実油や菜種油、さらには酒米など多種類の生産に活用されてきた。住吉川、芦屋川、都賀川などの水車基地群については再評価されても良いと思われる。

木綿と真綿

 ところで、綿花とよく混同されるものに「真綿(まわた)」がある。真綿は綿花のような植物性ではなく、絹の原料となる蚕のマユを開いて平面にして叩いて薄く伸ばした動物性繊維であり、防寒着などに使われてきた。
 絹の利用は古く、日本では弥生時代から養蚕と機織りが行われていたので、綿花よりはるかに歴史は長い。明治以降も廃れず隆盛を極め、欧米に輸出された。生糸の輸出は横浜港がほぼ独占していたが、1923(大12)年の関東大震災で横浜の大半が焼失し、神戸港に輸出の主力が移った。
 綿花と生糸の歴史の長短は対照的とも言えるが、それぞれの工程をつぶさに見ると資源を徹底的に再利用・活用していたことがわかる。綿実を取る際の灰や尿なども、養蚕のマユの中の蚕も肥料として利用されていた。屎尿を含め、江戸など都市の生活は殆どゼロ・エミッションの世界に近い。現在の石油に依存した無駄な大量生産・大量廃棄とは異なる江戸時代の人々の所作は、今日の資源枯渇の時代に改めて学ぶ必要があるのかもしれない。




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