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SMECアイ−診断士の視点−ESSAY

日本最初の株式会社とは
                             中小企業診断士 古野 健治

世界最初の株式会社

 「株式会社」とは一般に、有限責任のもとに株主に株式を分散して資金を調達するとともに、経営者に事業運営を委託する企業体である。世界最初の株式会社は、1602年のオランダ連邦議会の決議による「オランダ東インド会社」という説が有力である。それより早く1600年に誕生した「イギリス東インド会社」が株式会社になったのは1657年のこととされている。
 世界の覇権国家の推移を見ると、15世紀はヴェネティア共和国、16世紀はポルトガル・スペイン、17世紀はオランダ、18・19世紀はイギリス、20世紀はアメリカである。多くは海運と商業を背景とした軍事・経済力がヘゲモニーの源泉であった。
 「オランダ東インド会社」は、今日の民間の株式会社とは異なり、40隻の戦艦・150隻の商船・1万人の軍隊を擁し、植民地で貿易・行政・戦争を行う「もう一つの国家」であった。なんとなく戦前の満洲における国策会社「満鉄」を連想してしまう存在であった。

日本最初の株式会社

 日本最初の株式会社については諸説があり、定説は無いようである。そのいくつかを次に示したい。

@ 578年「金剛組」説 − 聖徳太子の命で造営された四天王寺の建築を担当した「金剛組」を挙げる説があるが、これはあくまでも「現存する株式会社の中で最も古い企業」というだけで、創業当時は株式会社ではなく、職人集団の組織に過ぎない。日本に株式会社が成立したのは、西洋文明に本格的に接触した幕末・明治期以降ということになる。

A 1865年、坂本龍馬「亀山社中」説 − 坂本が長崎でグラバー等から武器を仕入れて諸藩に売却するために創業したもので、福井藩主の松平春嶽などの大名から出資を受け、資本と経営は分離していたが、株式会社としての体裁には疑問が多い。意外とこの説を支持する者が多いのは龍馬人気のせいだろう。経営不振に陥った「亀山社中」は、1866年に土佐藩の後藤象二郎により1万両余の融資を受け、「海援隊」として土佐藩の海軍勢力に再編した。土佐藩はそれまでに長崎と大阪に「土佐商会」を設置しており、のちに「三菱商会」を設立する岩崎弥太郎も「海援隊」に関わっていた。

B 1866年、本間郡兵衛「大和方コンパニー」説 − 庄内藩の酒田出身の本間は、1862年に欧米・清国を巡遊し、帰国後は勝海舟の塾の蘭学講師となり、さらにグラバーの推薦で薩摩藩家老の小松帯刀により開成所の英語教師となった。本間は「薩州商社草案」を起草し、大阪の薩摩藩の「大和交易方」を株式会社方式に再編し「大和方コンパニー」を組織した。しかし、酒田の本間家に出資を勧めるために庄内に戻ったところ、薩摩藩のスパイと疑われ、服毒自殺を強いられた。

C 1867年、小栗上野介忠順「兵庫商社」説 − 小栗は1860年に幕府の遣米使節として渡米し、「パナマ鉄道」の会社のしくみなどを研究した。帰国後、幕府の勘定奉行となり、1867年に「兵庫商社設立建議書」を起草し「兵庫商社」を設立した。これは長崎や横浜の開港では西洋各国のみが一方的に利益を得ていることに対抗して、兵庫開港に当たっては日本側もコンパニーを作って、その利潤をガス灯・書信館(郵便)・鉄道に充てるというものだった。出資は大阪の大商人20人から100万両を集め、代わりに金札発行を許可するとした。組織は、鴻池屋の山中善右衛門ら3人を頭取、肝煎り6人、世話役11人とし、事務所は大阪中之島の商社会所に置いた。ところが事業開始直前に突然幕府は倒れ、薩長への徹底抗戦を主張する小栗は斬首されてしまった。

D 1869年、早矢仕有的「丸屋商社」説 − 早矢仕は岐阜に生まれ、江戸に出て医者になり、福沢諭吉の塾に学んだ。1868年に横浜で医者をしながら「書店丸屋」を開業し、1869年にウェーランド「経営哲学論」を参考に「丸屋商社之記」を起草し、輸入商社の「丸屋商社」を創立した。資金提供者(株主)を「元金社中」とし、労働力提供者(従業員)を「働社中」と位置付けた実質的な株式会社の第1号と評価されている。1873年に屋号を「丸善」に改称した。1879年に日本最初の生協である「共立商社」を東京に設立したのも早矢仕であった。なお、肉食が禁じられていた明治初期にハヤシライスを考案し広めたのも早矢仕である。

E 1873年、渋沢栄一「第一国立銀行」説 − 前年の国立銀行条例の制定により設立されたが、これは民間銀行であった。株式発行、取締役の設置、会計の制度を整えており、「正式な株式会社」の第1号と言われている。その後、1878年に「東京株式取引所」が開設され、日本の企業組織は株式会社が主流になっていった。

F 1885年、「日本郵船」説 − 岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社と共同運輸が合併してできた会社であるが、1893年の商法改正による最初の株式会社となり、現在の法体系に適合した株式会社の第1号といわれる。

 以上に諸説を見てみたが、定説は無い。各自の好みで判断すれば良いだろう。「明治」の「御一新」はゴタゴタの時代で、庶民は「とても治まるメイ(明)」と逆に読んでいた。当初の10年間は、新国家建設の重点をどこに置くかの内紛の時代であった。「富国」(経済力)を唱える大久保利通、「強兵」(国軍力)による征韓論を唱える西郷隆盛、「公議」(憲法制定)を唱える木戸孝允、「輿論」(国会開設)を唱える板垣退助らが衝突を繰り返していた。多くの試行と錯誤と犠牲の上に今日があることをあらためて想起しておきたい。


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