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SMECアイ−診断士の視点−ESSAY

西須磨地域と近代住宅
                            中小企業診断士 萩原 正五郎


明治以前の西須摩地域


 私が生まれ育った原体験としての西須磨地域は離宮道辺りから西方面へ潮見台、一ノ谷町辺りまでが含まれる。現在の須磨区は江戸時代には板宿、大手、東須磨、西須磨、妙法寺、車、白川、多井畑の8つの村からなり、狭い意味での須磨は西須磨村を指し、畿内の西のスミがなまってスマになったという説もある。この西須磨は元々農村、漁村を主にした静かな寒村で、北の田園ゾーンと南の海辺ゾーン、そして東西の西国街道、そこから延びる須磨寺、天神社への参道が僅かな軸を形成していたものと思われる。須磨寺は平安時代の始め、漁師が和田岬の沖で引き揚げた聖観音像を仁和2年(886年)に聞鏡上人が須磨の地に移したのが始まりである。また天神社は菅原道真公が九州に左遷された際の風雨を避け一時上陸した地と言われている。明治時代では目立つ建物としてはこの須磨寺、天神社であり、ほとんどが田畑と点在するため池で、集落は現在のJR須磨駅東側に漁村として形成されていた程度であった。大正時代に入り、旧国道(西国街道)沿いに建物が増加、兵庫電気軌道(現在の山陽電鉄)、武庫離宮(現須磨離宮)、住友邸(現須磨海浜公園)の整備、須磨駅北西方面高台の住宅整備が行われ、大正時代後期から昭和時代にかけて、西国街道沿い、須磨駅周辺、須磨寺参道等にはさらに建物が増加し多くのため池は埋め立てられて宅地化された。その後須磨駅北西方面高台ゾーンが周辺に拡大し、良質の住宅が立地、また離宮道沿いも邸宅が立地し、天神社周辺等も住宅が増加して今日の西須磨地域の原型が形作られた。

明治・大正期の近代住宅
 明治、大正時代における日本での近代住宅の流れを概観してみると、明治時代前期は文明開化、富国強兵の時代に合わせ、制度としての洋風化の開始であった。皇族たちの洋風大邸宅、和風大邸宅から、新しい時代のステータスシンボルとして和洋館並列型住宅が成立し、さらに中上流住宅の洋風化の動きとして和洋折衷住宅の提案がなされた。明治時代後期には西洋館普及に向け、アールヌーボー(花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組合わせ等の装飾的デザイン)の導入や、バンガロー住宅(コテージ風住宅)の導入など、デザインの発見と生活の変革への視点が持ち込まれた。大正時代に入って、郊外住宅地の誕生、スパニッシュスタイルの流行、生活改善の鼓動、住宅改良運動、同潤会の設立等、理想的生活の発見とデザインの多様化が見られるようになった。またこの頃から住宅作家や住宅の折衷化パターン等の新しい住宅論も出てきている。いずれにしても、日本の近代住宅はこの「和洋館並列」「和洋折衷」をキーワードとして発展してきたことが伺える。

西須摩地域の近代住宅と都市形成の変遷
 日本の近代住宅の流れに合わせ、西須磨地域の近代住宅と都市形成の変遷を見ていくと興味が尽きない。神戸市の郊外に位置する須磨の風光明媚で温暖な土地柄は優良な住宅地として別荘が多く建設された。明治21年山陽鉄道(現JR)が須磨駅設置で兵庫と須磨が直結、この温暖な気候を利用して須磨浦療病院(明治22)が建設され、のちに鶴崎邸(院長)が建てられた。また浄土真宗西本願寺派門主大谷家の別荘が建てられ須磨離宮の形成と整備(明治40〜大正3)に伴う別荘地が形成された。それを契機に離宮正面から国道までの道として離宮道を整備、両沿道に広大な別荘が建ち並ぶ静かな住宅地が形成され、南の海辺には住友須磨別邸が立地した。また居留地の狭小に伴う外国人の居住地(北野町周辺以外では須磨、塩屋、舞子)での一ノ谷辺りの異人館は現在は存在しないが、当時かなりのインパクトがあったと思われる。明治時代末より建築家による邸宅が離宮道から桜木町、天神町、須磨寺町、千守町、関守町、潮見台町等にかけて、かなり建設されている。例えば、川崎邸、村野山人邸、内田邸、西尾邸、岡崎邸、小曽根邸、藤田邸、九鬼邸、室谷邸、萩野邸等、挙げればきりがない。そしてこれらのほとんどが、何らかの形で「和洋館並列」「和洋折衷」の様式を持っている。大正時代から昭和戦前時代にかけて、須磨寺池畔遊園地等、市電の延長による沿道の商業化や須磨浦公園、海浜公園の整備による近都市型リゾート地域化により、さらに宅地化が進み、財界人等の大邸宅建設も活発になった。ただこれらの住宅地も戦後の高度経済成長期ならびに阪神淡路大震災以降、大邸宅の売却、取毀しが続き、宅地の細分化マンション建設等による景観破壊、環境破壊も都市問題となっている。

 以上見てきたように、古来から参拝客のあった歴史文化拠点の須磨寺、天神社(これを結ぶ南北軸が“智慧の道”)が中心に存在する西須磨地域は、近代化とともに温暖で風光明媚な環境を活かし、離宮、海岸を結ぶシンボル軸(離宮道)を中心とした邸宅・別荘群と、緑と眺望のある潮見台周辺地区の邸宅・別荘群を併せ持った地域として発展してきた。このような近代住宅史を持つ西須磨地域を今新たに再認識し、これからの新しい時代に向けた街づくり、住宅づくりに活かすことは重要であり意義深いものと思われる。

                ※参考文献:「日本の近代住宅(内田青蔵)」、「須磨の近代史(須磨区役所)」等 



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