プロ野球の魅力の発信
2025年6月3日、読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄氏が亡くなりました。私たち60代以上の年齢のものにとっては、ありえないことが起こってしまったということです。引退という1974年の出来事もありえないことの一つだったが、死亡というのはもっとありえないことでありました。私は、長嶋より王貞治、野村克也、落合博満、イチローの4人が好きであります。しかし、やはり長嶋茂雄という名前は特別でありまして、ショックはおおきいのです。今のプロ野球は、戦後の日本の経済成長に並行して文化芸術面での成長に一役買ったと思うのです。戦後の混乱から立ち上がりつつある日本中に、プロ野球やプロレスの選手たちは、夢と希望を与えてくれて、疲れをいやし次へのパワーをくれたと思います。その中心にいたのが、他ならぬ長嶋茂雄選手でした。もともと、東京六大学の方が人気がありましたが、彼がプロ入りし、あの天覧試合でのサヨナラの一発から全国的な人気スポーツになったといわれております。
プロフェッショナルとしての考え方
長嶋選手は、大学時代からどうすればお客さんを喜ばせられるか?を考えて4年間過ごしてきたそうです。メジャーリーグの本や雑誌を読み漁っていたとききました。。そんな中、であったのがヤンキースの名選手、ジョー・ディマジオ選手だったといいます。試合をみに来たお客さんの中には、一生に一度しか球場に来られない人もいる。長嶋選手は、そういう人のためにも、常に出場し、全力を尽くすというディマジオ選手の言葉を常に心に刻んでいたようです。ほかの選手は、オープン戦などは平気で休むことも多かったとのこと。しかし、長嶋選手は常時出場します。私も小学生、中学生のころ長嶋選手が甲子園球場や西宮球場で躍動する姿を見ました。
私が故郷の岡山市から西宮市に移転してきたのが11歳くらいだったので、長嶋選手は晩年でした。しかし、見に行った試合では全試合でONアベックホームランを見られました。公式戦、日本シリーズでおそらく5−6本は見ていると記憶しております。現役時代を生で見られた私たちは本当に幸運だったと思います。しかし、引退の前年でしたか、阪急とのオープン戦ダブルヘッダーを見たとき、その動きが重くしんどそうな感じを受けたことがありました。あの時だけです、あのような感じを受けたのは。その翌年、引退しました。そして、あの感動的な引退試合は、忘れません。
長嶋選手の打撃
どんな球でもはじき返したということしかありません。どんな球でも、打てる球は長嶋選手には絶好球だったのです。阪神の上田投手にノーヒットノーランをされる寸前にヒットを打ちました。また、大洋の平松投手を打つためにラジオアナウンサーを家に招き入れて平松の投球フォームで投げるように頼み、攻略法を練った話も有名ですね。また、阪神の村山投手とは永遠のライバルとして名勝負を繰り返しました。ここ一番の勝負強さは天下一品。
長嶋選手の守備
華麗という言葉しかありません。守備こそ長嶋選手の代名詞ではないでしょうか。打撃よりこの華麗な守備こそ長嶋選手だったと思います。ショートの横まで走って球をすくって、指先をひらひらしてファーストまで投げていました。トンネルも華麗だったですね。失敗なんか怒れない。これが魅力でした。
長嶋の勝負に対する考え方
初めて監督をした1980年は、ジャイアンツ史上唯一の最下位となりました。長嶋選手のいないジャイアンツを率いるのはきつかったでしょう。しかし、背番号90、33、3と3つの背番号を背に、9年間で3回のリーグ優勝、2回の日本一に輝きました、日本一になった2回のうち1回は、森監督率いる無敵の西武。もう1回は王監督率いるダイエーでのON対決。また、10月8日の中日との決戦も忘れられません。そのときの「勝つ、勝つ、勝つ」は今でも語り草になっています。ようするに、マイナスつまり負けることは一切考えない、ポジティブ思考なのです。これこそが真骨頂だったのではないでしょうか。
愉快なエピソード
長嶋茂雄という人のすばらしい、にくめない人格を現した数々のエピソードもあります。「いわゆる一つの」という言い回しとか、四文字熟語を一つという問いかけに「長嶋茂雄」と迷わず記載。ニューヨークの印象を聞かれ「ここの子供たちの英語はうまいよ」「いやー、外車が多いねえ」という珍回答。
不屈の闘志
長嶋茂雄には、やはり「不屈の闘志」という言葉が一番でしょう。「野球は人生そのもの」という彼のことばにみられるように、野球にすべてをささげ、そして必ず「勝つ」、やられたら「やり返す」という意思を貫き通したのでしょう。
メイクドラマ、勝つ勝つ勝つという言葉は、その結晶のように感じます。
人生の晩年は、苦しい闘病をされていましたが、日々の戦いに挑み続けた姿勢は忘れません。
ポジティブ思考で不屈の闘志をもって人生に立ち向かうすがたこそ、長嶋茂雄の残してくれた一番の宝物と思います。本当に、ありがとうございました。合掌。
2025年6月に記す。